■[ACT新聞社の紹介] |
本紙連載 法談閑談特別編
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内田雅敏
[弁護士]
日本国憲法は「前文」と本文11章103ヵ条からなる成文憲法である。「前文」は4段階に分かれる。
第1段落は「日本国民は正当に選挙された国会の代表者を通じて……」と、この憲法が国民の意志によって定められた民定憲法であり、その目的は「諸国民との共和」「自由のもたらす恵沢」を確保し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」ところにあるとする。
第2段階は「恒久平和を念願する」日本国民が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全を保持しようとしたことを明らかにし、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とした。
これを受けて第3段落は「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と国際協調主義の立場に立つとし、第四段落は「この崇高な理想と目的」の達成を誓うとしている。
この憲法の「前文」は全体として格調高く、人類のめざすべき理想を高く掲げ、とりわけ第3段落中にある「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」という「平和的生存権」のくだりは、今日平和の問題を考えるにあたり、不可避となっている南北問題をも見据えたものとして高く評価されるべきものと考える。
ところが国会の憲法調査会での論議あるいは自民党憲法調査会プロジェクトチーム内での論議では、この「前文」の評判がすこぶる悪い。曰く“翻訳調だ”“詫び証文みたいだ”“他力本願的だ”、さらには“長すぎる”云々。
自民党は「現在の前文は書き換えるという理解で共通の認識を有している」(杉浦正健憲法調査会プロジェクトチーム座長)という。読売憲法試案でも、憲法の前文は大幅に書き換えられ、現行「前文」にない「民族の長い歴史と伝統を受け継ぎ美しい国土や文化遺産を守り……」という文言が入れられている。
ところで、小泉首相は憲法前文中の「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」「いずれの国家〜」等々を引用して自衛隊をイラクの地に派兵した。小泉首相は、以前に「前文」と第九条「戦争の放棄」との間には隙間があると国会で珍答弁をなした。
自衛隊の海外での活動を容易にするため、「前文」中の一部分が恣意的に剽窃されはじめたのは、最近では海部内閣時代に小沢一郎自民党幹事長(当時)が国連PKOとの関連で国際協調主義を言い出したのが最初ではなかったかと思う。憲法「前文」中に、「われらは……国際社会において名誉ある地位を占めたい」とあるところに目をつけ、自衛隊は積極的に海外に出て活動すべしとぶち上げた。
以来、自民党では憲法の三大原理とは国民主権、基本的人権の尊重、国際協調主義だと主張されるようになった。憲法の三大原理のひとつである「戦争の放棄」がいつのまにか「国際協調主義」にすり替えられてしまったのだ。
憲法「前文」と「本文」 との関係、いやそもそも憲法「前文」とはどのような性格を有するものであろうか。憲法の教科書を見てもこの点について触れたものは少ない。試みに有斐閣から出版されている『憲法T』(野中俊彦法政大学教授ほか三名著)を開いてみる。それによると、「前文」は憲法のみならず、通常の法律でも本文の前に置かれることがあり、また、近代における多くの憲法典でも、長短さまざまな前文が憲法の本文に先立って置かれているという。そして「憲法前文は、制定時における各々の複雑な事情を反映してその内容もまた実に多様であるが、@憲法制定の歴史経緯を明らかにしてもの、A憲法制定の趣旨・目的を示したもの、B憲法の理念・基本原則を宣言したものに大別することができる。日本国憲法の前文は、近代立法主義の原則に依りながら現代国際社会における日本の在り方を明らかにしている点で、Bの典型例である」とある。
つまり、日本国憲法における「前文」は、憲法の理念・基本原則を宣言したものである。
小泉首相が第九条「戦争の放棄」を基本原理――歴代政府は自衛隊の任務は専守防衛にあって海外派兵は許されないとしてきたとする憲法「前文」の一部を恣意的に引用して自衛隊をイラクに派兵したのは、憲法のアクロバット的解釈(朝日新聞、東京新聞など)であって許されるものではない。
ところで、憲法の判例を調べてみると「前文」のこのような剽窃は、今に始まったことではないことが分かる。とりわけ1959年12月16日になされた砂川事件大法廷判決がそうである。
砂川事件裁判で最大の争点となったのは、在日米軍が憲法第9条2項がその保持を禁じている「戦力」に該当するかどうかということであった。一審判決では、在日米軍は憲法第9条2項が禁ずる「戦力」にあたるとして在日米軍の存在根拠である日米安保条約は憲法違反、したがってこれに基づく刑事特別法も憲法違反として、起訴された7名の学生に無罪判決を言い渡した。
ところが検察からの跳躍上告を受けた最高裁大法廷は、この無罪判決を破棄し、被告人らに対し逆転有罪の判決を言い渡した。判決は憲法前文中に「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とある点に注目し、日本は憲法第9条2項によって「戦力」を持つことができないが、しかし、として以下のように述べる。
「われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法九条は、わが国がその平和と安全を稚持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法9条の趣旨に則して同条2項の法意を考えて見るに、同条項において戦力の不保持をも規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」と。
在日米軍は日本政府の指揮管理下にないから、憲法第9条がその保持を禁ずる「戦力」に該らないというのである。
なぜ指揮管理下になければ、憲法の禁ずる「戦力」に該当しないというのかまったく理解できない。また「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というのも伊達判決が指摘するように国際連合を指すと解するのが無理のない解釈だと思う。しかし、本稿ではそのことを問題にしているわけではないので、この点についてはこれ以上は述べない。
大法廷判決はさらに、「(日米)安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を綿結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それゆえ、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無交であると認められない限りは、裁判所の司法査権の範囲外のものであって、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする」と、悪名高い「統治行為論」を述べ憲法判断を回避した。
それから半世紀を経た今日もなお日本の裁判所は、この「統治行為論」の呪縛から抜け出ることができていない。自衛隊の装備の拡充、米軍との一体行動は当時と比べて格段に強められているにもかかわらずである。
ところで、このように最高裁大法廷判決は憲法の「前文」を引用して日米安保条約に基づく在日米軍を容認したわけであるが、しかし、それは日本の防衛に関しての判断であることを押さえておく必要がある。というのは、同判決は戦争を放棄し、戦力の不保持を定めた日本国憲法下においても「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」と述べ、日本が個別的自衛権を有する(ただし、前述したように大法廷判決はその場合でもいわゆる「自衛戦力」を持つことができるかどうかはまた論議がありうるとしている)ことを前提として、逆にいえば個別的自衛権に関する論議として判断しているからである。
ところが時代は変わり、今日、小泉首相は日本の防衛に直接関係のないイラクでの「米軍支援」として自衛隊を派兵したのであるから、ことは集団的自衛権に関する問題となってくる。なお、この点について最高裁大法廷判決において田中耕太郎(長官)が以下のような補足意見を述べていることに注意を払う必要がある。
「一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぽす程度に拡大深化されている。従って一国の自衛も個別的に即ちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである」
要するに、今日においては個別的自衛権、集団的自衛権の区別はもはや意味がないというのである。
小泉首相が憲法の前文を引用して、自衛隊をイラクに派兵するに際して、同首相に約半世紀前のこの田中判事の補足意見を吹き込んだ輩がいると思われる。行使できないとする集団的自衛権の禁を解くために、今後このような論がますます声高に語られるであろう。 最後に本稿の主題とはずれるが、大法廷判決中の田中判事の以下のような論も紹介しておきたい。
「元来本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭である。事案は刑事特別法によって立入を禁止されている施設内に、被告人等が正当の理由なく立ち入ったということだけである。原審裁判所は本件事実に対して単に同法二条を適用するだけで十分であった。しかるに原判決は、同法2条を日米安全保障条約によるアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題と関連せしめ、駐留を憲法9条2項に違反するものとし、刑事特別法2条を違憲と判断した。かくして原判決は本件の解決に不必要な問題にまで遡り、論議を無用に紛糾せしめるにいたった。
私は、かりに駐留が違憲であったにしても、刑事特別法2条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてかりにそれが違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは立法政策上十分是認できるところである。
およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであっても、一応その事実を承認する前提に立って法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。違法な事実を将来に向かって排除することは別問題として、既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である。それによって、ある事実の違法性の影響が無限に波及することから生ずる不当な結果や法秩序の混乱を回避することができるのである。かような場合は多々存在するが、そのもっとも簡単な事例として、たとえ不法に入国した外国人であっても、国内に在留する限り、その者の生命、自由、財産等は保障されなければならないことを挙げることができる。いわんや本件駐留が違憲不法なものでないにおいておや」
「違法(違憲)な事実を将来に向かって排除する」ためにこそ、憲法判断を回避してはならないはずではないか。
「曲学阿世」――曲学をもって権力者や世俗におもねり人気を得るような行動をすること(広辞苑)――という語句は、このような場合に使われるべきではなかろうか。最高裁判事、それも長官を務めた者の思考方法がこの程度のも
のであることを知っておくのも無駄ではあるまい。
2004年、福岡地方裁判所(亀川清長裁判長)は、小泉首相の靖国神社公式参拝を憲法第20条政教分離原則違反と断じた。判決理由の末尾、以下のように縮めくくられている。
「本件参拝は、靖国神社参拝の合憲性について十分な議論も経ないままなされ、その後も参拝が繰り返されてきたものである。こうした事情に鑑みるとき、裁判所が違憲性について判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いというべきであり、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、前記の通り判示する」
(5月31日記)
うちだ まさとし 1945年生まれ。早稲田大学法学部卒業。75年弁護士登録。日弁連人権擁護大会・戦後補償シンポジウム実行委員長などを務める。花岡事件をはじめ補償請求問題や訴訟に積極的に取り組む。憲法調査会市民監視センター事務局。許すな!憲法改悪市民連絡会事務局長。「イラク派兵違憲訴訟・東京」の中心弁護士。今年3月17日から毎日1人づつ本人訴訟を起こすという「毎日提訴運動」を開始。著書に『「戦後補償」を考える』(講談社現代新書)、『懲戒除名―"非行"弁護士を撃て』(太田出版)、『敗戦の年に生まれて―ヴェトナム反戦世代の現在』(太田出版)、 共著に『在日からの手紙』(太田出版)、『憲法9条と専守防衛[教科書に書かれなかった戦争シリーズ]』(梨の木舎)など。
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